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2008年12月18日

12月歌舞伎座・昼の部(2)

08年12月歌舞伎座 (昼/「高時」「京鹿子娘道成寺」「佐倉義民伝」) これも、反権力劇「佐倉義民伝」 「佐倉義民伝」は、2回目。戦後63年間で、本興行で12回目の上演ということで、5、6年に1回という感じでしか演じられない演目。6年前、勘九郎時代の勘三郎の宗吾で観て見ている。序幕では、印旛沼の渡し、佐倉の木内宗吾内、同裏手へと雪のなかを舞台が廻り、モノトーンの場面が展開する。二幕目では、1年後の江戸・上野の寛永寺。多数の大名を連れた四代将軍家綱の参詣の場面は、錦繍のなかで燦然と輝く朱塗りの太鼓橋である通天橋(吉祥閣と御霊所を結ぶが、死の世界に通じる橋でもあるだろう)が、舞台上手と下手に大きく跨がり、まさに、錦絵だ(遠見中央に、寛永寺本堂が望まれる)。やがて、宗吾は、この橋の下に忍び寄り、橋の上を通りかかる将軍に死の直訴をすることになるのだ。雪の白さと錦繍の紅との対比。それは、将軍直訴=死刑という時代に、故郷と愛しい家族との別れの場面を純愛の白色(古来、日本では、白は、葬礼=タナトスと婚礼=エロスの色であった)、雪の色の白で表\わし、迫り来る死の覚悟を血の色の赤色、紅葉の紅で表\わそうとしたのかも知れない。 「印旛沼渡し小屋の場」では、雪の舟溜まりに、小舟が舫ってある。土手には、「印旗の渡」と書かれた柱。隣に、庚申\さまの石碑を祭った祠がある。竹本は、御簾内の語り。役人たちは、宗吾帰郷警戒する非常線を敷いている。暫くして、宗吾(幸四郎)が、花道から姿を現す。「願いのために江戸へ出て、思いのほかに日数を経、忍んで帰る故里も、去年の冬にひきかえて、田畑もそのまま荒れ果てて、村里ともにしんしんと、人気もおのずと絶えたるは、多くの人も離散して、他国へ立ち退くものなるか」。この名科白で、この芝居の原点は、すべて語られている。土手に上がる傾斜のある道で、滑って転ぶ幸四郎。被っている笠の雪が、どさりと落ちる。幸四郎は、こういう芝居は、得意だ。今回は、本興行で、2回目の出演。いつもながら、思い入れたっぷりに熱演している。将軍への死の直訴を胸に秘め、江戸を中心に降った大雪を隠れ簑に、一旦、江戸から故郷へ戻り、家族との永久(とわ)の暇乞いをしようとしている。 この場面は、渡し守の甚兵衛(段四郎)が、肝心だ。段四郎は、6年前、この役を演じる予\定だったが、病気休演で、欠勤。今回が、初役だ。警戒で見回りに来た役人には、狸寝入りをしていたと思われる甚兵衛が、恩ある宗吾の声を聞き取ると、慌てて起き上がり、小屋の戸を開け、急いで、宗吾をなかに引き入れる。小屋のなかにあった竹笠で、甚兵衛は、焚火を消す。火の灯りが洩れて役人に宗吾と知られるのを警戒してのようだ。この辺りに、農民の抵抗劇の色合いが、滲み出ている。やがて、禁を破り、舫いの鎖を斧で切り離した甚兵衛は、宗吾を乗せて、舟を出す。雪下ろし、三重にて、舟は、上手へ移動する。ふたりを乗せた舟を隠すように霏々と降る雪。甚兵衛の命を掛けた誠意が、宗吾の人柄を浮き上がらせる。段四郎は、「2度目の初役」ということで、叮嚀に演じているように見受けられた。史実では、家族と最期の別れをした宗吾を対岸に送った後、入水自殺をしたという。印旗沼の畔に甚兵衛翁の碑と供養塔が、今もある。 舞台が廻り、「子別れ」の場面へ。見せ場とあって、竹本も、床(ちょぼ)の上で、綾太夫の出語りに替る。まず、佐倉の「木内宗吾内の場」は、珍しく上手に屋根付きもじ張りの門がある。下手に障子屋体。いずれも、常の大道具の位置とは、逆である。座敷では、宗吾の女房おさん(福助)が、縫い物をしている。福助は、2回目。宗吾の子どもたちが、囲炉裡端で遊んでいる。長男・彦七、次男・徳松に加えて長女・おとうもいる。さらに、障子屋体に寝ている乳飲み子も。すべて、やがての「子別れ」の場面を濃厚に演じようという伏線だろう。 歌女之丞、芝喜松、段之、達者な傍役たちが演じる村の百姓の女房たちが、薄着で震えている。おさんは、宗吾との婚礼のときに着た着物や男物の袴などを寒さしのぎにと女房たちにくれてやる。後の愁嘆場の前のチャリ場(笑劇)で、客席を笑わせておく。女房たちが、帰った後、上手から宗吾が出て来る。家族との久々の出逢い。宗吾が脱いだ笠から雪が、再び、ぞろっとすべり落ちる。 女房との出逢い、目と目を見交わす、濃艶さを秘めた情愛。子どもたち一人一人との再会。父に抱き着く子どもたち。子から父への親愛の場面。父から子への情愛。双方向の愛情が交流しあう。幸四郎は、それぞれをいつもの思い入れで、じっくりと演じて行く。子役たちも、熱演で応える。 雪に濡れた着物を仕立て下ろしに着替える宗吾。手伝うおさんは、自分が着ていた半纏を夫に着せかける。福助のおさんは、久しぶりに触れる夫の身体を愛しんでいるのが判る。しかし、妻との交情もほどほどに、宗吾一家の再会は、永遠の別れのための暇乞いなのだ。宗吾は、下手の障子屋体の小部屋に、なにやらものを置いた。自分がいなくなってから、おさんに見せようとした去り状(縁切り状)だろう。 良く判らない登場人物が、幻の長吉。宗吾と幻の長吉(三津五郎)とのやりとり、長吉を追う捕り手は、やがて、己にも追っ手が迫って来る宗吾への危険信号でもある。捕り手に衣類を剥ぎ取られ、半裸で逃げた長吉の、雪の上に脱ぎ捨てられた下駄が、宗吾のあすは我が身を伺わせるという演出。幻の長吉は、そういう劇的効果を狙っただけの役回り。 去り状をおさんに見られた宗吾は、仕方なく、本心を明かす。将軍直訴は、家族も同罪となるので、家族大事で縁切り状を認めていたのだ。離縁してでも、家族を救いたいという宗吾。夫婦として、いっしょに地獄に落ちたいというおさん。その心に突き動かされて去り状を破り捨てる宗吾。「嬉しゅうござんす」と、背中から夫に抱き着き、喜びの涙を流す福助も、熱演。 親たちの情愛の交流を肌で感じ、子ども心にも、永遠の別れを予\感してか、次々に、父親に纏わりついて離れようとしない子どもたち。皆、巧い。「子別れ」は、歌舞伎には、多い場面だが、3人(正確には、乳飲み子を入れて4人)の子別れは、珍しい。それだけに、こってり、こってり、お涙を誘う演出が続く。役者の芸で観客を泣かせる場面。実際、客席のあちこちですすり上げる声が聞こえ出す。幸四郎は、こういう芝居は、自家薬籠中であろう。いつものオーバーアクション気味の演技も、今回は、効果的。泣かせに、泣かせる。特に、長男・彦七は、宗吾の合羽を掴んで放さない。垣根を壊して、家の裏手へ廻る宗吾の動きに引っ張られてついて行く。半廻りする舞台。ともに、半廻りして、移動する父と子。最後は、息子を突き飛ばす父親。雪は、いちだんと霏々と降り出す。「新口村」のようだ。肉親との別れに、雪は、効果的だ。別れを隔てる雪の壁。本舞台では、家の中から、いまや、正面を向いた裏窓の雨戸を開けて、顔を揃えたおさんと子どもたちが泣叫ぶ。振り切って、花道を逃げるように行く宗吾。農民の反権力の芝居というより、親子の別れの人情話の印象が強い。 二幕目「東叡山直訴の場」では、開幕すると、浅葱幕が、舞台全面を覆い隠している。幕の両脇、上手と下手から出て来る警護の侍4人。警護の厳しさを強調して、再び、幕内に引っ込むと、浅葱幕が、振り落とされて、紅葉の寛永寺の場面になる。錦繍のなかで燦然と輝く朱塗りの太鼓橋である通天橋が、舞台の上手と下手を結ぶ。将軍・家綱公(染五郎)が、松平伊豆守(弥十\郎)ら大名たちを引き連れて、通天橋を渡って行く。橋の下に現れた宗吾だが、橋の高さに届かぬ直訴状を折り採った紅葉の小枝に結び付ける。しかし、還御の際、戻って来て橋の中央、太鼓橋の最も高い所に立つ将軍に直訴状が届かぬうちに、捕らえられてしまう。「知恵伊豆」こと、松平伊豆守が、知恵のある裁き方をする。つまり、形式的には、直訴御法度なので、受け付けないが、直訴状の上包み(封)を投げ捨て、中味を袂に入れて、保管するという見せ場を創る。美味しい役どころ。 この結果、佐倉城主・堀田上野之介の悪政は、将軍家に知られるところとなり、領民は救済される。しかし、封建時代は、形式主義の時代だから、宗吾一家は、離縁をせずに、おさんが覚悟したように乳飲み子も含めて家族全員が、皆殺しにされる。 「佐倉義民伝」は、17世紀半ばに起きた史実を基にした芝居だが、明治期の九代目團十\郎が、志向した史劇では無い。江戸時代の芝居だ。明治維新まで、あと17年という、1851(嘉永4)年、江戸中村座で、上演された。原作は、三代目瀬川如皐。初演時は、「東山桜荘子」(東の国の佐倉の草紙=物語というところか)という外題で、時代物として、舞台も、室町時代に設定されていた。直訴の場面の演出も、幕府によって、変更させられたという。木内宗吾は、本名、木内惣五郎だけに、「惣『五郎』」で、「五郎」。これは、曾\我兄弟の「五郎・十\郎」の「五郎」と同じで、「五郎」=「御霊(ごりょう)」。つまり、御霊信仰。農村における凶作悪疫の厄を払う、古来の民間信仰に通じる。この後、前回の勘九郎主演の時も、今回も、演じられなかったが、「問註所」の裁きの場面、大詰で城主の病気と宗吾一家の怨霊出現の場面があり、庶民が、溜飲を下げる形になっている。 贅言1):宗吾の故郷、佐倉藩の領地、印旛郡公津村(いまの成田市)には、没後350年以上経ったいまも宗吾霊堂には、年間250万人を超える人が、参詣するという。私心を捨て、公民のために、己と家族の命を犠牲にした「宗吾様」は、神様なのである。歌舞伎座内で配っていたパンフレットにも、説明は、「宗吾様」とある。宗吾の決死の行動は、明治の自由民権運動にも影響を与えたといわれる。明治期に全国で上演された「佐倉義民伝」は、110回を数えるという。1901(明治34)年、足尾鉱毒事件で、明治天皇に直訴した田中正造は、木内惣五郎を尊敬していたという。反権力の地下水脈は、滔々と流れていたことになる。 贅言2):、今回は、人情劇の色合いが濃い演出になっていたが、この芝居は、本来、「木綿芝居」という、地味な農民の反権力の劇である。1945年の敗戦直後に、「忠臣蔵」など切腹の場面などがある歌舞伎は、戦前の軍国主義を支えた、封建的な演劇だということで、GHQによって、暫くの期間、禁じられたが、そういう動きのなかで、「佐倉義民伝」は、デモクラティックな芝居として、敗戦から、わずか3ヶ月後の、11月には、東京劇場で、上演された。早々と歌舞伎復活の一翼を担ったことになる。初代の吉右衛門の宗吾、美貌の三代目時蔵のおさん、初代吉之丞の甚兵衛、七代目幸四郎の伊豆守、後の十\七代目勘三郎のもしほの家綱などという配役であった。初演時は、磔を背負った宗吾一家の怨霊がでる演出などがあったという。反権力のメッセージも、より明確だったのだろう。 (了)


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